墓石の下には眠らない 新しい旅立ち、樹木葬・自然葬 (朝日新書)本無料ダウンロードpdf

墓石の下には眠らない 新しい旅立ち、樹木葬・自然葬 (朝日新書)

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ペーパーバック : 185 ページ
作者 : 黒田 麻由子
出版社 : 朝日新聞出版 (2008/12/12)
コレクション : 本
ISBN-10 : 4022732512
フォーマット : Paperback, Hardcover, Epub, PDF, Kindle
発行日 : 2008/12/12
平均的な顧客フィードバック : 4.2 5つ星のうち(5人の読者)
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本日、読みやすい文章で到着ですぐに全部読めました。数年前に、「お墓の前で泣かないでください、私はそこにはいません」って歌詞の歌が流行りました。私は無宗教というか、仏教、キリスト教、イスラム教とその派生した宗教を信仰してませんが、昔(子供)のころから、墓って存在は何なんだろうか?がとても不思議に思う変な子でした。だって、家には仏壇があって、それに祈り、墓には見たことはないけども、遺骨が入ってるらしくて、それにも祈る家族。祈りって相手があってのことなのに、何で、仏壇にも墓にも祈るんだろうか?が不思議でした。また、お盆には先祖が帰るといって、仏壇付近に提灯みたいなのと、おいしくないお菓子をそなえるけど、帰るってことは、普段はどこにいるの?仏壇?墓?遺影?大人になる過程で、江戸時代の制度の流れが、そのまま残ってるだけということがわかりました。あと、明治になってからの廃仏キシャクって制度で、お寺さんが、それまでの制度で暮らせてたのが、制度が変わったために、食えなくなる寺が続出、そんななかでお寺さんが食うために作られたもの(宗教のようである意味商売)ってのがわかった。人に限らず、生き物は死んだら、虫に食われたり、鳥に食われたり、また細菌に食われたりして、その排泄物になって、骨だけが残る。今でもテレビでアフリカとか動物がたくさん住んでいるところで、骨だけになったかつて生き物だった物がころがってるのを見かける。人間も生き物のひとつには違いなく、かつては、死んだらそのようなことになっていたと考えられる。そして、ミクロサイズでみたら、生き物の残骸かどうかはわかるかもしれないが、おおまかに言えば、泥や土になって、肥料になって、草木がそこにはえ、それを食べる動物がでてきてと、生き物の死が循環サイクルになってたと思う。そこに祈りとか宗教とか文化とか、そんな高尚なものはなくて、ただ循環を繰り返していく。人間もかつては、その循環サイクルの一部であったと考えれば、土に還るという発想は、ごく自然なもののような気がする。だが、骨になるまでには、腐る、食われる、臭う、見栄えが悪い、衛生的じゃないなどの、人間独自の価値観で、プロセスの否定がされて、プロセスを飛び越えるためかはわからないが、火葬とか、土深くに埋めるとかの土葬とかの発想が生まれたような気がする。まだ、私は死臭というものを嗅いだ経験はないが、かなり臭いようである。そのような臭いが、近所そこらにしていたら、とても暮らしに支障がでるだろう。そこで、死体の扱いと埋葬の方法などを、法律に定めてしまっている。確かに、どこの誰ともわからない骨が、そこらにころがっていたら、いい気持ちはしないし、誰かが、自分の家に知らない人の骨を埋めたり、まいたりされたら、やはり気持ちいいとは言えない。でも、そもそも墓は祈る・参る人がいて、初めて墓として管理されるもので、管理されてないと、すぐに墓の周りには草がはえて、見栄えも悪くなる。だから、法では管理する人がいない墓(墓苑にお金を払う人がいない)のことを、無縁墓といい、一定の期間(決まってたと思うけど)、管理する人がいなければ、処分しても良いことになっている。お墓の沙汰も金次第というわけだ。家制度が民間人にまでできたのは、明治からですが、それから「○○家代々之墓」と書いた墓が増えた。代々って書いてあるけど、さて、この「代々」を、祈る・参る行為って、何代前までやるの?つうか、普通は、おじいちゃんとか、自分が知っている人が対象のような気がする。ということは、4代以前の人は無縁になるってことになる。(お寺、墓苑にお金を4代前の人の分まで払う人がいないからか?)でかい墓なら別だけど、普通にみかける墓に入る骨って、せいぜい3代か4代くらいが限度のような感じ。それじゃ、「代々之墓」は嘘じゃん、と思ってしまうが、つまり、お金を払ってくれる人がいる間は、墓に入れといてあげるよ、って意味に限りなく近いような気がする。じゃ、それ以前の人はどうなってるかというと、どうも坊主が読経しながら処分の名の元に、土に還される(捨てる)らしい。坊主の読経にどれだけの意味威力があるのか、捨てる行為に後ろめたさでもあるのではと、勘ぐりたくなる。もちろん、無縁墓になっても、そうなるらしい。私も曽祖父や曾祖母を知らないから、祈ったこともないし、墓がどうなってるのかも知らない。たぶん、土に還ってるのだろう、いや、穴や一定の場所に捨てられているのかもしれない。それならば、そもそも墓の存在は3代、つまり50年程度がタイムリミットで、それ以降は、土になる運命。だったら、最初から、土になって、樹木の養分になって、年に一度花を咲かせて人を喜ばせ、花の後には実になって、人間や動物に食べられて、糞になったり、種を残して、新たな木を生んだりすることのほうが、余計な祈りや参拝や管理もいらなくなって良さそうな気がする。海に火葬した骨をまくことを「散骨」というらしいが、これも原理は一緒。海に入ることで、土にはならなくても、立派な循環サイクルの一部になれ、自然に近い形も戻れるわけだ。ちなみにブッダは火葬されて、ガンジス川に「散骨」されたらしい。だからって、無宗教の私が「散骨」を勧めるわけではないが、太古には、自然自体が神としてあがめ、畏れられていたわけで、死んだ人や動物がその自然に還ることは、自然の一部に同化し、神の一部になれるとも考えていたのじゃないだろうか。別に、神や仏になりたいとは思わないが、それがそもそもの神の構成物であれば、生き物そのものが神で正論なきがする。、文化や宗教、法律は人間が社会を作って暮らしやすくするための、秩序のようなものだけど、自然は、それを超えて、もっと懐が深いような気がする。「母なる大地」、山崎豊子さんの小説にあったタイトルのような気がするが、自然に還るのは、母の胎内に還るのを連想してしまう。人間だけではなく、生き物として、とても心地の良い世界。死んだことはないから、そんな心地になれるかどうかは知らないけども、人間の脳で作った文化や宗教よりも、もっとスケールの大きな世界に返れるような気がする。人間の社会の中では、管理という責任は必要。だけど、管理されなくなって、初めて人間を始め、生き物の全ては死を迎えられるような気がする。色んな性格の人間がいるように、祈られることを喜ばず、放っておいてくれ、と願うご先祖さまもいるような気もする。管理といえば聞こえが良いが、結局限度があるなら、最初からやらない選択もあってもよいと思う。たかだが、お寺や墓苑の管理を生業とする商売にのっても、50年もしたら処分される。つまり、お金をくれる人がいなくなるからだ。世の中はお金だけど、死んでからもお金はちょっと寂しい。お金から開放される意味でも、今の樹木葬とかは、墓苑になってるみたいで、お金がかかるが、自分の家の庭の梅の木の下に埋めてもらえるなんて、最高に幸せな気がするのは、私だけだろうか。面倒な宗教の教義もいらないい、坊主の読経もいらないし、花なら季節がくれば咲いてくれるし、子孫に忘れられても、木が生きていれば、ずっと循環できる。この本には、管理された状態での樹木葬や、自然葬をやっている墓苑や寺の紹介があったが、結局は、管理料をとられ、払う人がいないなったり、企業として、寺や墓苑が倒産すれば、石の墓と同じことになる。小学校にある木とか、庭の木とか、自分の畑にまいてもらうとか、海なら陸地から離れてて、海流が循環している場所がいいな。たかが、50年なんて金を請求されてまでして欲しくはないって気になる。宗教とはいえ、所詮は神聖なものではなく、今は限りなく企業に近い存在。金の力で、位牌だって、立派なことを書いたものから、安いと格下のものまで。葬式も金をかけたら盛大で、かけなかったら寂しいものに。だから、悟りだ菩薩だなんていいカッコ言うけど、所詮は金。なんて思ってしまうから、既存の宗教の信仰なんてできない私である。今の社会というか、法律では、形だけの樹木葬、石が木に変わっただけのようで、地区は限定されて、管理会社、管理寺があって、金をとり、金をとれなくなれば、新しい顧客開拓のために、木を処分して新地にして、また坊主が読経して売る。きっとこの繰り返しだろう。最近は石の墓地でも、前はあった墓がすぐに新地になってるのをよく見かける。これも若者が田舎を離れて、都会で働くために、墓に目を向ける人が少なくなった表れだと思う。商売にすれば、金をくれるかくれないかしか尺度がないので、今の法律では樹木も同じ道をたどることになりそうな気がする。商売にするのも、厳しいものだが、それでも、儚い会社や寺が潰れれば、草木樹林(そうなればいいのだが)になるかと思えば、地区使用が決まっているので、看板が変わった会社の管理になるだけの繰り返しである。海もどこに散骨してもいいわけではなく、漁業を生業とした人がたくさん活動しているとこでは、嫌がられる。でも、今の法律では、樹木葬で永代供養とか言われるよりも、散骨で、さ〜っとまいてしまえば終わりだから、そのほうが良さそうな気がする。どうせ「お墓に私はいません」って歌があるくらいだから、海に撒いても、石の墓に入れても、木の下に入れても、結果は同じこと。「そこにはいませ〜ん」でも循環できるだけ、石の墓に閉じ込められるよりかは、海のほうが良さそう。木も本来は悪くはないけども、今の法律では、石の墓と同じ扱い。お金を払う人がいなくなれば、木も切り倒される可能性だってある。(そして、そこを新しく売って商売にする)坊さんは、生きることは「苦」であるというが、これでは死んでからも落ち着かない。今の法律で自然葬の視点で一番ゆるいのは「散骨」のような気がする。(漁師さんには悪いけど)

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